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Technicolor Resonance (21字)

Technicolor Resonance

Aquamade-sweetheart グラブル (19字)

「……あ、やばいかも」 VOCALOID (394字)

「……あ、やばいかも」
「は?」
「ごめん」
謝罪が口をついて出たのは、その後に起こることの予測がついたからだ。とっさに掴まる物を探した右手は空を切り、力を失った両膝は《がちゃん》と極めて機械的な音を立て、体ごと床に崩れ落ちる。
「おい、カイト」
「ほんとごめん、落ちる」
体裁を繕う余裕もなくそれだけ告げて、カイトの意識はぶつんと途切れた。

今年の夏も暑い。《観測史上最高》というフレーズはすでに聞き慣れたものとなり、誰もが日常的に熱中症などの非常事態に備えて対策グッズを持ち歩くようになった今、問題になり始めているのが人型ロボットの熱暴走だった。
「……ほんと、すみません」
頭を枕から浮かせようとするカイトを、秋は押しとどめる。
「いいから寝とけ」
「でも――」
「再起動したばっかなんだから、いいって。動作確認してみて、なんともなさそうならもっかい寝直したらいい」
「……はい」

えてして人生とはそういうものだ。 (16字)

えてして人生とはそういうものだ。

「ならば一体、どうすればよかったのですか」 (21字)

「ならば一体、どうすればよかったのですか」

「所詮は獣だな。うるさいばかりで物の道理も知らぬと見える」 グラブル (250字)

「所詮は獣だな。うるさいばかりで物の道理も知らぬと見える」
「天司長だの副官補佐だのと、大層な肩書きを付け合って喜んでいるのだろう。楽しそうで何よりだな」
額に熱が集まるのを感じて君が眉根を寄せるのと同時に、彼の声が頭の中で響いた。
——もっとわがままになっていい。
——オレ達が造られた身だろうが何だろうが、構わないさ。子が親を越えることはないなんて法則は無いし、むしろ進化の過程を鑑みれば、子のほうが優れていることこそ自然だとオレは思うね。
「……確かに」
思いのほか滑らかに、口は言葉を紡いだ。

「お帰りください」 十二国記 (490字)

「お帰りください」

「主上、どうか」
「――よせ、景麒。それ以上言うな」
「どうか。あちらへお帰りください」
陽子の袂を弱々しく掴んだ景麒の手が、主のからだを押し返そうとしているのか、それとも逆にすがりつこうとしているのか、陽子にはわからなかった。
もしかすると、景麒自身にももうわかっていなかったのかもしれない。
「帰れだと。そう言ったのか、景麒」
「……」
「一回だけなら、聞かなかったことにしてやる。――ここからはひとりごとだ」
陽子の手が、景麒のそれを覆うように包んだ。張りのある布地を掴んでぎしぎしと軋むように固まったその手をほどいて、両手でくるんで温める。
「わたしは、胎果だ。その事実以上に、どうしようもなく、わたしの居場所はここなんだ」
景麒は目を伏せる。それは体のつらさゆえか、心の痛みからか。
「わたしはこちらで――景麒の隣で生きると決めた。ここ以上の、わたしの拠りどころなどない。だから、万が一にもお前が、わたしがあちらへ行くことを望んでいるのだとしても、それを『帰る』だなんて言葉で表さないでくれ。ここがわたしの生きるべき場所であり、帰るべき場所なんだ」

新年会で陽子が酔う話 十二国記 (2714字)

新年会で陽子が酔う話

「まったく……」
ひとりごちて、景麒は廊屋(ろうか)を進む足を早めた。
時刻はおよそ夜半の入り、日付も変わろうという頃だ。平時であれば、この時間には当然ながらほとんどの者が寝入っている。しかし今夜はいまだ、喧騒の名残のようなものが内宮にとどまっていた。

「お祝いをしよう」
朝議の場でそう提案したのは、陽子だった。
元号が赤楽に変わってから、幾度目かの新年。荒廃しきった国を立て直すのが何よりの最優先事項だったこともあり、陽子が践祚(せんそ)した折の式典以来は、祝い事らしい祝い事を経ることもなく今に至っていた。
「私は、わたし自身がまつりあげられることについては、どうも面倒だとしか思えない。今でも。国庫の無駄、時間の無駄だと思っている」
相変わらず自身をぞんざいに扱う王に、官たちは苦笑する。
「――だから、私を祀るための催事は必要ないと思う。少なくとも、国に余裕があるとは言えない今は、まだ。でも、皆を労うための祝い事は、できる限りで行いたい」
「と、いいますと?」
すいと眉を上げて問うたのは浩瀚(こうかん)だ。陽子はその涼しい表情に、うん、と笑顔で応えた。
「私のいた蓬莱では、年の暮れと年明けに宴席を設ける文化があったんだよ。年末のそれは《年忘れ》と呼ばれていた」
「年を、忘れる」
「そう。その年にあった嫌なこと――穢れのようなものかな、それらを次の年に持ち越さないように、というのが名目だ。もっぱら働く人々のための文化だったから、まだ学生だった私には縁がなかったけれど」
陽子は笑みを深めた。あの場所で、あのまま、あの陽子が成長を重ねたとしたら、忘れたいと思うようなことにまみれて年の瀬を迎えていたのだろうか。あるいは、それすら感じないほどに空虚な日々を送っていただろうか。それどころか、社会に出ることもなく両親の元で暮らし続けていた可能性すらある。今となっては淡く想像するほかない、ただの仮定の話だ。
「年が明ければまた集まって、決意を新たにするんだ。年の区切りに酒の席を設けることで、気持ちをいっそう強く切り替えて次の年を迎えることができるんだよ。良いと思わないか?」
浩瀚は、そうですね、とだけひとまず返答した。陽子は続ける。
「国官だけではない、慶の民はみな、頑張ってくれている――いや、頑張って『くれている』だなんて言い方すらおこがましい。私のようないたらない者が玉座にいながらもここまで進んで来られたのは、ひとえに皆のおかげだ。私はそれに礼をしたい。皆とこうして年を越すことができたことを、なにより祝いたい。余計な催事を増やす余裕などこの国にないことは解っている、でもこれは決して余計なことではないと私は思うんだ」
言葉を選びながら言い終えて、黙ったままの浩瀚を見つめる。傍らへ視線を逸らして考えこむようにしていた彼は、ふっとひとつ息を吐いて陽子を見返した。陽子は思わず肩をすくめて、声量を落とす。
「……えっと……だめ?」
今度はおおげさな溜め息が返ってきた。
「王ともあろうお方が、泣き落としなどするものではございません」
「泣いてはいないよ」
「言葉の綾でございますよ。――主上が個人的に設ける、ごく小さな席という扱いでもよろしいですね?」
「……うん!」
「承知いたしました。大宰と、いちおう大宗伯にもかけあいましょう。個人的な食事の席という扱いにできるならば天官の範疇になりますが、祭事という扱いにすべきならば大宗伯以下、春官に任せなくてはなりませんからね」
「本当にありがとう、嬉しい」
両手を合わせて拝むように頭を下げる陽子に、浩瀚は軽く笑いかける。
「そこまでして主上に労っていただけるのですから、感謝すべきはこちらの方です」 そしてさらりと言い添えた。
「ただし――台輔には主上からご説明なさってくださいね」

「景麒ぃ」
「はい」
麒麟の性とも言うべきか、素直に言葉を返したが、返答がない。主のほうを見やってみれば、幼子のように目を細めて、くくく、と笑っていた。
「なにがおかしいのです」
「ん? んー」
陽子はなおも笑う。衾を両手で引き寄せて口元を隠してはいるが、楽しげな表情は隠せずにいる。
「景麒。景麒ー」
「ですから、なんですか。先程からそればかりで、まるで子どものようです」
「『子どものよう』もなにも、わたしは子どもだよ」
「屁理屈をおっしゃい」
何度目とも知れない溜め息が漏れた。
「御酒まで召し上がっておいて、子どもだなどとおっしゃるのはいかがかと――」
「ああ、もうー」
景麒の言葉を遮って、陽子は両手を投げ出した。それを受けて、空気をふくんだ衾が、ぼふん、と音を立てる。
「景麒は頭が堅い。堅いー、かっちかちだ」
「今更でしょう」
「それはそうだけど。――わたしは子どもだよ、どうしようもなく子どもだ」
「ですから何を……」
「ねえ」
ふたたび遮られて、景麒は気付いた。先程まで笑んでいたはずの陽子の眉根に皺が寄っている。くるくると変わるその表情に何となく不安を感じ、景麒は押し黙った。その様子を見て口端だけで笑う、主の双眸。
「わたしは景麒に選ばれて、王になって、ここにいる。けど、この世界について知らないことがまだまだあって、いたらないって思うこともたくさんある」
「主上……」
「全然わかんないんだよ、いろんなことが」
それにね、と陽子は続けた。指先で袍の袖口をもてあそぶようにしている。その手元を景麒も何となく見つめる。
「浩瀚や景麒や官たちみんなに、それは駄目だって言われても、なんで駄目なのかわかんない、みたいなことばっかりだよ。慣例だとか太綱だとか、そんなんやってみないとわかんないじゃん、って思う。おんなじ海客でも、延王みたいに割り切れない。条理みたいなものを飲み込めずにふてくされてばっかりで、わたしはいつまで経っても大人になりきれないって思う」

「ねえ、景麒」
「何でしょう」
「転変して」
「……は?」
今度こそ、景麒の

酔いたいだけだったんじゃないんですか
そうだよ、そういうものだよ、みんななにか理由をつけてひと息つきたい、なにか理由でもつけないとひと息つけない、だから蓬莱ではそういう習慣が続いてきた
景麒が今夜ずっと機嫌が悪かったのは、浮ついたことが嫌とか陽子が酔うのが嫌とかいうより、酔ってへろへろの陽子を見られるのが嫌だったのだ!
こういうふうに触ったり話したりするのは景麒だけだよ
だから景麒がいてくれないとだめだよ、たまにこうして嫌がらせてしまうけどそばにいてね
嫌じゃないです
機嫌直った!!!!!

とかくメイコは欲しがらない。物も、そうでないものも、なにもかも。 VOCALOID (482字)

とかくメイコは欲しがらない。物も、そうでないものも、なにもかも。
だから無理やり押しつけた。
「どういうことですか」
「見た通りだよ」
秋の返答は淀みない。はぐらかそうとしているのではなく、この言い方で通じると心の底から信じ切っている声だった。
「……はあ」
細長い包みを手にしたまま眉根を寄せるメイコの表情を見て、秋は内心でわずかに高揚する。
「開けないのか」
「今ですか?」
「今の他にいつ開けんだよ」
まあそれはそうですね、とメイコは答える。しかし、それでも指先はためらっていた。
「でも……」
「なんだよ」
「……あなたが見てる前で開けないといけないんですか?」
嫌悪感というよりは困惑をあらわに、目を細めて問うてくる。秋は思わず小さく噴き出した。
「嫌か」
「そうじゃないけど。やりづらいでしょう」
なぜかと問えば、苦笑が答えた。
「わたしが表情に乏しいのは、マスターが一番知ってるくせに。……見ても面白くないと思いますよ」
「はなから面白がるつもりなんかないから、心配無用だ」
「じゃあ、何のために」
秋はあっさりと答えた。
「喜ぶ顔が見たいだけだよ」

目の前に置かれたリーフレットは、その薄さに反して重たい存在感を放っているように見えた。 VOCALOID (114字)

目の前に置かれたリーフレットは、その薄さに反して重たい存在感を放っているように見えた。
「……これは」
問わずとも、本当は分かっていた。それが何なのかも、その意味も、
「気が向いたら読んでみてほしい」
とだけ告げた相手の意図も。

陽子がいなくて寂しい景麒の話 十二国記 (2553字)

陽子がいなくて寂しい景麒の話

「無駄よ、台輔」
そう言って祥瓊(しょうけい)は笑った。そわそわと――長い時間をともにした者でなければ判らない程度に、そわそわと――指を組んだりほどいたりしながら廊屋(ろうか)を進んできた景麒に向かって。
呼ばれた景麒は、はっと顔を上げる。隣に主人の姿はなく、彼が空いた時間をひとりでつぶしているのは目に明らかだった。
「祥瓊殿」
「あなたがうろうろしても、陽子がいない事実が消えるわけではないんですから。どうぞ落ち着かれてください」
ちかごろ陽子は、雲海の下、冬官府(とうかんふ)へと出かけたきり戻ってこない日が多い。
「しかし。あまりに――」
「外出しすぎ、って? そう案ずるほどのことでもないでしょう。陽子のことですから、どうせまた何か新しいことに首をつっこんで、夢中になっているんだわ」
他国の人間が聞けばとても王を指しているのだとは思わないであろう、気安い言い草だ。
「それとも台輔、そういった陽子の性格について私より疎いのでしたっけ?」
「それは……その」
「もう、駄目ですよ、そこで口ごもってちゃ。『そんなことはない、主上をいちばんよく理解しているのは私だ』と、胸を張って返していただかなくては」
口元に手を当ててくすくすと笑う。この口調こそ、一国の宰輔・麒麟に対する一般的なものでは、およそない。とはいえこういった態度に、いつからか景麒も慣れつつあった。
「私はどうも気が堅い。主上のお言葉や行動の真意に、思いが至らないことも多く……祥瓊殿に及ばないのではと」
「かように謙虚さを学ばれたのは、非常に大きな前進かもしれませんが」
祥瓊は「んしょ」と小さく声を漏らしながら、厚い紙束を持ち直す。
「麒麟であるあなた以外に、真に陽子と《通じあって》いる者など居はしないのですよ、台輔」
陽子が登極して早数年。今まさに祥瓊と景麒が立つ外宮(がいぐう)のはずれ、曲廊(ろうか)の脇にある小さな四阿(あずまや)の周りには、明るい色の花々がほころんでいた。見上げる空はみずみずしく澄んで、ところどころに霞む雲さえ涼やかに映る。目を背けたくなるものが何もない視界――それが、この数年で慶国にもたらされたものだった。
「案ずることはありません。大丈夫。だいじょうぶです」
含むようにそう景麒へ言い聞かせた祥瓊はしかし、一瞬で表情を切り替えて、
「さ、私は職務がありますので!」
きゅっと口角を上げ直し、さっさと持ち場へ戻っていった。景麒は「はあ」と口の中でもごもご言いながら彼女を見送り、四阿へそのまま腰を下ろす。
「……『大丈夫』」
皆、そう言う。
この調子なら大丈夫だ、陽子なら大丈夫だろう、きっと大丈夫に違いない――何度聞いたか数える気すら起こらないその言葉を、景麒は手放しで受け取ることができずにいる。
「大丈夫だと、そう言い聞かせて……うまくいかなかったのに」
押し込めても蘇るものが、景麒にはある。脳裏にこびりついたあの姿。陽子とは違っていた《彼女》。どうにかしたかった。どうにもならないのではと頭のどこかで悟りながらも、どうにかしたいともがかずにはいられなかった。だから景麒は、何度も何度も繰り返したのだ。彼女に向かって――大丈夫ですから、と。
「彼女と主上は違う」
これも皆が口をそろえて言うことだ。前王とはまるで違うたたずまい、思い切り、思慮の深さ。彼女が前王と同じ轍を踏むことはない、きっと慶国は生まれ変わるだろうと。じっさいその兆候は如実に表れている。けれど、と遮りたくなる景麒はまるで、異分子のようだった。
「――けれど、私は私のままだ」
王は変わった。予王とはものの見方も考え方も違う陽子が登極した。でも、麒麟は。慶国を混迷に陥れた予王を選んだ、その麒麟が、宰輔としていまだここにいる。変わっていない。変われていない。
「私でよいのだろうか……」
命が永らえている以上、天帝は景麒という存在を肯定していることになる。この世に居よと、命じているのに他ならない。しかしそれでも――
「私ではない者のほうが、よいのでは」
「そんなことはないよ? なんだかよくわからないけど」
景麒が肩をびくんと強張らせて顔を上げるのに応えながら、彼の主は目を細めた。
「ただいま、景麒。毎度毎度、待たせてすまない」
「主上……」
「どうしたんだ、ひどい顔をしてる。ほら、これを……冬官府の女史が淹れて持たせてくれたんだ。美味しいよ」
言いながら陽子は、くるりと軽やかに景麒の隣へ腰を下ろす。卓子(つくえ)の角を挟んで、二人の身体が垂直に向かい合うかたちになる。取り出した茶筒を開けて、蓋を茶杯(ゆのみ)に注がれたのは、香草を深く発酵させた茶だった。湯気と香りが景麒の目鼻をくすぐる。
「落ち着かない気持ちを鎮めてくれる調合だそうだ。すごいよね、味が良いうえに心身にも好い影響をもたらすなんて。香草茶は働き者だな。私も二役くらいは果たせる存在になりたいものだな」
紡がれるその言葉はおだやかで、相手の返答を求めるでもなくのんびりとこぼれる。言い終えてから陽子はふっと一つ息を吐いて、
「ね」
と景麒に笑いかけた。
「あの……ええ」
「熱いうちに飲むといい」
「はい」
陽子の意図をつかみかねたまま、景麒は茶杯に口をつけた。香り高いそれを含むと、なるほど、と言いたくなる安堵がじわりじわり広がる。
「ありがとうございます。美味しゅうございます」
「だろ。女史にも伝えておこう、景麒が喜んでいたと」
「喜んでいるとは……」
「言ってないって? でも間違いではないだろう」
頬杖をついた側に体重をかけるようにして、陽子は姿勢を崩した。逆側の手で、半身の肩に触れる。
「だって、さっきまで幾分思いつめた顔をしてたよ。今はだいぶましだけど……」
……どうしたの。
小さい声を漏らしながら肩に置いた手を滑らせて、景麒の手を包んだ――否、包もうとした。少女の手は小さく、彼の手を覆うには足りない。短く切りそろえた爪と、健康的な印象を与える肌の色。それらは景麒にとってあらがいがたく、対照的な前王の姿を見て思い起こさせた。
「……景麒?」


そばにいないとさびしい、不安になる
ずっとそばにあるという証明としての指輪

「……景麒」 十二国記 (1243字)

「……景麒」
臥室に入ってきた景麒は、明らかに眉根を寄せていた。けれどそれはいつもの憮然とした表情ではなく――
「困ってる?」
「……否定はいたしませんが」
はあ、と、ため息。
――良かった、いつも通りだ。
陽子は肩の力を抜きかけ、はたと思い直した。景麒のため息を聞いて、安心する日が来ようとは。
「ふふ、不思議なものだ」
「何がですか」
一人くすくすと笑む陽子から目を離さないまま、景麒は臥牀(しんだい)の脇に膝をついた。傍らには、ひと抱えほどの大きさの(たらい)。ぬるい湯を張ったのは、先ほどまで詰めていた女御のはずだ。その女御はどこへ行ったのか。席を辞せずともここにいて、そのまま王の世話をしてくれれば良いだけの話ではないのか。景麒は顔をしかめたまま水面に目をやる。
「……」

なにとなく、陽子の体調については説明を受けてきた。講義を行なったのは、もともと海客である――すなわち、殻の姿だった頃の陽子と似た身体構造を持っていた、鈴だ。
「あちらとこちらでは、子を成す方法がかなり違います。ですから、ええと……」
鈴はわずかに口ごもる。景麒はすいと首を傾げた。「どうなさいましたか」
「いいえ。……こういうときだけ素直なんだから……」
などとこぼしつつ、鈴は続ける。
「あちらでは、人の子は母親の胎内に生るのだというのは?」
「存じています」
信じがたいことではあるが、と小声で付け足す景麒に、鈴が頷いた。
「そう、信じがたくとも蓬莱では《そういうもの》なのです。それゆえに、大多数の女性の身体は成長するにつれ、子を宿すのに即したつくりへと変化します。それで……その変化には、ときに出血や痛みが伴う」
出血という単語に、景麒の肩は自然と強張った。「大丈夫ですよ」と鈴は笑う。
「あちらの女性の多くはそのことを理解して、あるていどは仕方ないと受け入れます。ですから、出血も痛みも毎度おきまりの作業のように処理するわけですね。そのための品々も、市場には出回っていますし。私があちらにいた頃と比べれば、陽子の時代には医学も工業技術も相当に進んでいるはずだから、なおさらだわ」
さておき、と鈴は肩をすくめる。
「陽子はもともとこちらの人間。虚海を越えた時点で、髪から肌、目の色といった殻の部分が本来の《こちらの造り》に戻ったわけですから、体内でも同じことが起きたと考えてよいでしょう。となれば今の陽子には、ええと、定期的な出血の心配はないはず」
というか、と笑って一言。
「起きてたら、台輔は今頃寝込んでしまっているでしょう?」
「ええ、まあ……」
穢れを忌む麒麟が、半身の血の臭いに気づかないわけもないのだ。
「だから、血のほうはたぶん心配ない。問題は痛みのほうです。私もこれは実体験のない聞きかじりなんだけど――定期的な出血に伴うのと同じ痛みが、出血のないときにも起こることがあるみたいで」
「と、いうと」
「『なんだかよくわからないけれど身体が痛い』ということが起こり得る、ってことです」

主上のいなくなった世界で普通に生きていく自分が怖い。 十二国記 (132字)

主上のいなくなった世界で普通に生きていく自分が怖い。
生きていけるのだと、生きていくことができてしまうのだと、知るのが怖い。
それなら死んでしまいたい、死んでもいい。

新しいパジャマを着てくる。
1分経ったら入ってきて脱がせていい
起き抜けの彼女にプロポーズする

「景麒。わたしは、だいじょうぶだから」 十二国記 (181字)

「景麒。わたしは、だいじょうぶだから」
半身の左手をくるむように握りながら、互いの心へ押し込めるような慎重さで発した言葉。その声。

景麒、なんかの折に予王舒覚の持ち物だかなんだかをみつける
景麒、ああ〜〜〜ってなる
陽子、景麒を元気づける。わたしは予王とは違うから、だいじょうぶだから
景麒、その陽子の姿に愛のようなものが目覚めてしまう?
国が傾く
んーんんん

「台輔のこと、好きじゃないの?」 十二国記 (176字)

「台輔のこと、好きじゃないの?」
「はは、景麒はそういうんじゃないよ」
「違うの? 好きじゃないの?」
「うーん……どう説明すれば桂桂にとってわかりやすいかな。景麒のことは、嫌いじゃないよ。いないと困る、大切な存在だ」
よいしょ、としゃがみこんで、首をかしげたままの桂桂に目線を合わせ、陽子は答えた。
「――でも、景麒には、そういう感情は持っていない」

傾国を経験しているからこそ分かることがある。 十二国記 (65字)

傾国を経験しているからこそ分かることがある。
予王がいたから景麒は自分をいっそう信じてくれている。
結ばれないから、結ばれている。

「泣かないでください、主上――あなたにそのような顔をさせるつもりではなかった」 十二国記 (118字)

「泣かないでください、主上――あなたにそのような顔をさせるつもりではなかった」
「私だって、お前に対していつもそう思っている。そんな顔させたいわけじゃない、笑ってほしいのに、って」
「……っ」
「これで、少しは私の気持ちが分かったか?」

「私はね、景麒にだけは、殺されてもいいと思っている」 十二国記 (788字)

「私はね、景麒にだけは、殺されてもいいと思っている」
「っ、主上」
景麒は反射的に声をあげた。否定してほしくて。陽子に、いつものように、「冗談だよ」と、「言葉の綾だよ」と、そう笑ってほしくて。けれど景麒を振り返ったその顔は、少しも笑んではいなかった。
「本当だよ、景麒。お前になら、私は殺されたっていい」
「……そんなこと、するはずがないのはご存知でしょう」
「かもね」
でもわからないよ? と陽子は笑って、襦裙の裾を押さえながら景麒の正面に膝をついた。そのまま、彼の指先をきゅっと握る。ここで握り返すべきなのか、されるに任せておくべきなのか、景麒には分からなかった。
「誤解しないでほしい。私はそうやすやすと死ぬつもりはないよ。私の命はすなわちこの国の命だ。命運だ。ありがたいことに、個人的に私を信頼してくれている人もたくさんいるしね――景麒もそのうちの一人だと思っているんだけど、」
どうかな。首をかしげて顔をのぞきこもうとするその仕草に、わずかな怒りさえ湧く。
「お訊ねになるまでもありません」
「ありがとう。……私はこれでもね、前王に少し妬いているんだよ」
「え?」
予想外の言葉が飛び出してきて、景麒は思わず顔を跳ねあげた。ふわん、と揺れた薄金の鬣を、陽子は目を細めて見つめ、指の背で撫でつけるようにする。
「景麒はときどき、予王のことを思い出しているだろう。私を死なせたくないと思うのも、――もちろん私自身を想ってくれているというのは大前提だけれど――予王が道を踏み外し崩御した、『あのとき』のようになってほしくない、なりたくない、というのが大きいんじゃない?」
「……」
否定は、できない。
「私を死なせたくない、私に斃れてほしくない、その気持ちの影にはいつも予王がいる。私にはそれがちょっとね、なんていうか、複雑な気持ちになるときもある」
返す言葉に迷うけいき

大して縁があったわけでもないのに、二度と触れられないと分かった瞬間に何故だか息が詰まりそうなほど恋しくなるものがある。 十二国記 (123字)

大して縁があったわけでもないのに、二度と触れられないと分かった瞬間に何故だか息が詰まりそうなほど恋しくなるものがある。
「……夏祭り、けっきょく行ったことなかったな」
陽子の家庭は、今思えばひどい環境だった。おそらく。積極的に子どもに手を上げたり

「あの、ケイキ、さん」 十二国記 (954字)

「あの、ケイキ、さん」
かなりの時間をかけて思い切った割には、自分でも拍子抜けするような声しか出なかった。今にもぷつりと千切れそうな、ほつれた糸のような声。喉元で息が引っかかっているのがわかる。
「……はい」
明らかに渋々といった(しか)(つら)が、それに応えた。振り返った彼の顔。張り詰められた目尻。それらを認識するだけで、喉が締まった。
「なんでしょうか」
「えっと、あの……わたし、なんだか体調が」
「……」
「体調が、悪くて」
景麒の両目がいっそう細められる。
「それで、何か」
「え」
「何をおっしゃりたいのかと、申しています」
そこは、正寝(せいしん)から内殿(ないでん)へと通じるひっそりとした曲廊(ろうか)の中ほどだった。ここでお休みになられませ、と連れられてきたのが、正寝。寝るところだから、正寝、とこれはすぐに覚えることができた。けれど、明くる日に大小さまざま数えきれないほどの建物を案内され、もうどれが何なのか、何をする場所なのか、すっかり混乱して今に至っている。正寝から「外」に出たのに「内」殿、ってどういうことなんだろう。
「わたし、今から仕事をするんですよね」
「そう申しあげたはずですが」
「仕事って、その……王としての」
ってことですよね、と念を押すことはできなかった。高い位置から自分を見下ろす紫の視線が、ぐっと圧力を増したように感じられたからだ。
――もうやだ。
陽子はうずくまりたくなった。でも、そう思うだけ。体は動かない。実際にうずくまってしまえば景麒の態度がどうなるかくらい、さすがに想像がつく。
「恐れながら申しあげます」
この世界へ陽子を連れてきてからというもの、枕詞のように幾度となく聞かされてきた前置きだった。恐れてなんかいないくせに、と陽子は内心悪態をつく。
「再三申しあげていますとおり、あなたは私の主上であり慶国の王。受け入れがたいことではあるかもしれませんが――」
私にとっても、という言葉は口の中で転がされて、陽子には届かなかった。
「天啓が示されている以上、これは動かすことのかなわないことです。あなたにはこの国の王として、責務を果たしていただかなくてはならない」

帰りたいかと問う、帰りたいなら帰すと
でも、と陽子がためらう
そこに前王の姿が重なって嫌悪感

「かといって、景麒のことを嫌いになりたいだなんて思えない。ましてや、無関心でありたいなんて」 十二国記 (1103字)

「かといって、景麒のことを嫌いになりたいだなんて思えない。ましてや、無関心でありたいなんて」
組んだ指に目を落としたまま、陽子は吐露する。尚隆は、ただ静かに耳を傾けることで続きをうながす。
「わたしは、あちらで生きていた頃、常に自分の感情を押さえ込んでいました。ですから、友人らしい友人もいたことがありません。親友や恋人と呼べる人などは、言うまでもない」
それは、陽子が相手の意に従うことでしか人間関係を築けなかったころの話だ。今や、時間という意味でも距離という意味でも遠く分かたれた世界。とは言えその世界は、まぎれもなく陽子を育てた環境でもある。十数年間にわたり彼女に及ぼされた影響は大きく、未だ完全に消えてはいない――あるいは、完全に消える日など永遠に訪れないのかもしれなかった。
「だからわたしには、上辺でなく真の意味で心を通わせる付き合いというものが、わからない。わからないから、自信が持てない。この感情自体が勘違いなのではないかとさえ思える」
「それで、景麒本人に打ち明ける前に俺を打たれ役として呼んだわけか」
「すみません」
頭を下げようとする陽子を、尚隆は軽く手を挙げて制した。その口元には笑みが浮かんでいる。
「よい。少しばかり長生きしているだけの爺でよければ、聴こう」
五百年を生きてなお、仙である延王には老いというものが訪れない。若々しく精悍な彼がことさらに年齢を揶揄する姿に可笑しさがこみ上げ、陽子もつられて笑った。
「……ようやく笑ったな。慶の民に幸福をもたらすには、まずお前からなのだぞ」
「一理あります」
「一理も二理もある。呼びつけたのだから少しは俺の言うことを呑んでみよ」
尚隆はゆったりとした動きで傍の卓に手を伸ばし、酒器を持ち上げて口を湿らせた。そして、まずは、と続ける。
「これは単なる疑問だが。なぜそうも頑なに自らの感情を否定する。そこまで思い悩んでおいて、廉王と廉台輔の例を思い浮かべないわけもなかろう。あのお二方は深い愛情をもって慕い合っているが、漣国は傾くどころか安寧を保っている。それを思えば、お前が心を閉じることなく生きられるよう、方策を探ることも無駄にはならんだろう」
「でも」
顔を上げた陽子の表情は曇っていた。
「廉王や廉台輔と、わたしは……違う」
尚隆は片眉を上げる。「なにがだ」と問えば、引き絞られたような声が答えた。
「漣の主従は互いに想い合いこそすれ、その向こうに民を見ている。言わばお二人が同じ方向を――漣の未来を見据えて、横並びに歩んでいらっしゃるかのようです。だからきっと、天帝もお二人を裁かない。そのままで国を守れと、漣を託している」

喜怒哀楽なんて要らない。 (34字)

喜怒哀楽なんて要らない。
喜びと楽しさだけ知っていればよかったのに。

親指の付け根にシャンプー (38字)

親指の付け根にシャンプー
それを見てドリンクカップに「シャンプー忘れずに!」

相性がいいと表現すれば聞こえはいいが、実のところ相性というよりは都合が(・・・)いいというほうが実情をより正確に指しているようにも思えた。 (67字)

相性がいいと表現すれば聞こえはいいが、実のところ相性というよりは都合が(・・・)いいというほうが実情をより正確に指しているようにも思えた。

「待て、こら――おい」 十二国記 (194字)

「待て、こら――おい」
肩を強く押し返そうとしたが、かなわなかった。熱い手のひらに手首を掴まれて思う。普段は絶対なる(しもべ)としての振る舞いを貫いているだけで、単純な肉体の強さだけでいえばこいつのほうが圧倒的に上なのだ。だからこうして、やすやすと臥牀(しんだい)と壁の隅に追い詰められている。
――主上。
明らかにそれは《声》ではなかった。興奮状態にある獣が喉の奥から鳴らす音――石塊を転がす

「思い出話をしよう」 十二国記 (912字)

「思い出話をしよう」
陽子は笑って、椅子をすすめた。そばの書卓に厚い書物が積み上がっているのに気づかぬわけもなく、景麒はちらりと主の表情をうかがうが、当人は構わず茶卓と茶杯をいそいそと並べている。茶菓子がないんだよな、と小さくつぶやく横顔には、なんの他意もないように見えた。
「……女御は」
「払った」
短い返答には、それ以上の追及を寄せ付けない雰囲気がある。だから景麒は黙った。陽子が茶壺を軽く揺らして、茶杯に傾けながら口を開くのを見つめる。
「蓬莱に、こういう言葉がある。『歴史は勝者によって作られる』」
はあ、と答えれば、陽子は視線で書卓を示した。
「いままで私がやってきたことは、ありがたくも一人の王のありようとして書物に刻まれている。寝て起きて仕事をして、生きているだけで歴史書に記録が残るわけだ」
「主上の歴史は、慶国の歴史そのものですから」
「そう、私とはすなわち慶国だから。ええと」
——朕は国家なり、だっけ。
景麒が首をかしげると、陽子は「あっちの偉人の名言だよ」と眉を上げる。
「ともかく。久々に読んでみて実感したんだ。歴史書に残るのは、慶国を維持する装置としての私の人生であって、私そのものの生き様じゃない」
「装置などと……そのような言葉をお使いにならないでください」
「でも、そういうことだと私は感じたよ。これを書いてくれた者達には不本意かもしれないが」
「私にとっても不本意です」
眉を寄せる景麒に、陽子は笑みを返す。まあまあ、と茶卓ごと茶杯を押しやり、「……だってさあ」とわずかにくちびるを尖らせた。
「あの本の中に、《中嶋陽子》はいないだろう」
茶杯を持ち上げかけていた景麒の手が止まる。
「赤楽元年に景王が践祚(せんそ)、って、まるでそこが私の《はじまり》みたいに言ってくれるじゃないか。それ以前の私の人生など、存在すらしていなかったかのような書きぶりだ。確かに慶国にとっては、私が帰還した時が赤楽の——現景王の誕生なんだろうが。私は」
茶をすすって、陽子は大きく一つ息を吐き、また吸う。
「——私は。私は別に、こちらへ来たあの時に生まれたわけじゃない。その前だって生きてた。ちゃんと生きてた」

「セールでわたしが投げ売りされてました」 VOCALOID (442字)

「セールでわたしが投げ売りされてました」
「お前じゃなくて、お前の同期だろ」
「そうなのかな……」
「そうだよ」
当たり前だろ、と返すと、ミクは緩慢に口を閉じた。(マスター)の言葉に納得したというよりは、適切な返答が思いつかない様子だ。
かくいう(しゅう)も、自分の言葉選びに絶対の自信があるわけではない。ワークチェアから立ち上がりつつ、横目でミクの表情をうかがう。淡いグレーのエコバッグを下ろしてカバーのかかった本を数冊取り出す横顔は、まだ幾分ぼんやりしている。
「なんか飲むか。疲れただろ」
「ありがとうございます」
やや集中を欠いていようが、問われれば間髪を入れずに返事をする。彼女は——彼女らは、そういうふうにできているからだ。それでも、秋はこの素直さを好ましく思う。それに、
「何がいい」
「えっと、しょうがのやつ」
「はいはい」
秋のもとにやって来てから出会った物と、味の好みと、言葉遣い。それらの一つ一つがミクを構成していることも、また彼にとって好ましい事実のひとつだった。

ガチャリと外から鍵が開けられる。ドアが開く。 VOCALOID (159字)

ガチャリと外から鍵が開けられる。ドアが開く。
「ただいま」
「おう、おかえり」
靴を脱いで揃えたミクは、まっすぐ風呂場へ消える。すぐにシャワーの音がして、しばらくしてから止む。
ほどなくして、部屋着姿のミクがリビングに現れる。ファイバー製の髪は水捌けが良く、既にほとんど乾ききっている。
脱衣所に置いていたトートバッグ

「ただいまあ」 VOCALOID (2445字)

「ただいまあ」
「おかえり、遅かったな――って、おい、どうした」
台所から顔をのぞかせるなり表情を変えた秋に、リンはへらへらとした笑いを引っ込めて、
「……ごめんなさい」
とだけ答えた。その後ろではミクがミニスカートの裾を握りしめるようにして立っている。今朝おろしたばかりのそれは、珍しくミクが熱心に欲しがったものだった。カフェラテ色のタータンチェックに、茶色の留め飾りが付いた巻きスカート風の一着。昨年の今ごろに見かけて一目惚れしたものの、値段が高いからと何週間も躊躇し、結局シーズン終わりのセールで割引になっているのを知ったリンに「いくっきゃないじゃん!」と急かされ、そんなに忘れられないなら買ってこいと秋にも背中を押され――来年にたくさん着るからと決めて買ったスカート。
「なんでそんなに汚れてるんだ」
「えっと……」
茶色の染みが大きく広がり、もとの柄が判別できないほどに汚れていた。トップスも似たり寄ったりのひどい状態で、秋は思わず顔をしかめる。
「とりあえず、着替えてこい。シャワー浴びるか?」
「だいじょうぶ」
ミクが答えるよりも早く、リンが口を挟んだ。
「服はこんなんなっちゃったけど、中は汚れてないよ。お風呂に入るほどじゃない。ね、ミク」
「……うん」
「ミク。本当か」
秋があくまでも本人に問いかければ、リンも口を閉じて上目づかいに後ろをうかがう。視線を受けてミクは、「はい」と小声で応じた。
「リンが手を引いて支えてくれたから、これで済んだんです。だから、大丈夫です」
「体は異常なくても、その顔じゃ《大丈夫》ってわけでもないだろ。……着替えな。温かい飲み物でもいれるから」
ミクはいっそう眉毛を下げて、こくんと頷いた。

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人型ロボットは、一部の例外を除いて、一般的なヒトに似せた背丈で設計される。当然、衣類もヒトのそれと互換性を持つので、購入時に付属する衣服とは別に、ファッションとして着替えを楽しむ個体も少なくない。秋の家ではリンがまさにそのタイプで、若者向けのポータルサイトやSNSをチェックしては、「今年はビッグシルエットがキテるんだって」だの「やっぱパステルカラーは一着欲しいよね」だの、かしましく流行を追いかけ回している。
その一方で、ミクはほとんど服を欲しがることがなかった。付属品の衣装――ノースリーブのタイ付きトップスにプリーツスカート、揃いのアームカバーとニーハイブーツ――を洗っては着る、その繰り返しで、リンが新しく買った服をうきうきと着回しているのを見ても、どことなく他人事のように笑っていた。
そんなミクが珍しく秋にねだったその一着は、今、ぬるま湯を張ったバケツに漬け込まれている。丸っこい書体で「大事なおしゃれ着、ふんわり仕上げ」などとプリントされた洗剤とともに。
当人はパジャマに着替えて、秋のいれたホットココアをちびちびとすすっていた。
「……で」
と切り出したのは秋だ。
「何があった」
ミクが着ていた服はそれなりに広い範囲が茶色く汚れていたが、ざっと確認したところ、土や泥がついている様子はなかった。転んだわけではないらしい。そもそも、今週はずっと雲ひとつない快晴が続いている。田畑にでも出かけないかぎり、あそこまで汚れるような水たまりやぬかるみがあろうはずもない。
なにより、二人のこの表情。
「……」
リンは帰宅してからずっと、怒りを押し込めているような雰囲気をまとっている。ミクと秋の会話に口を挟んだのをそれとなくとがめられたため、一応黙ってはいるものの、むっすりと尖らせた唇は雄弁に「ぜんぜん納得いかない」と訴えていた。ただし、リンが納得していないのは、秋に諭されたことではなく、出かけた先で起こった、事の発端そのものだろう。
その顔つきをあたらめて見やってから、秋は「ミク」と声をかける。
「言いづらいなら、リンに聞いてもいいか。何があったのか」
「……」
「……お前が自分から話したくなるまでいくらでも待つ、と言ってやりたいのはやまやまなんだけど」
鼻から大きく息を吐いて、続ける。
「おれは、そこまで放任主義じゃないからな。事の次第によっちゃ、おれが直接話をつけに行くことになるんだし」
話って、と、リンが小さく聞き返した。
「何をするの」
「だいたい分かるだろ。……おれの家族に何してくれたんだって聞きにいくんだよ」
「けんかするの?」
「けんかじゃない。丁寧におうかがいすんだよ。『大事な家族を泣かせたのは、どこのどいつでいらっしゃいますか』って」
「けんかじゃん、ふつーに」
「違げえだろ」
芝居がかった口調をまじえて真剣に話していると、ふっと小さくミクが笑った。秋はごく自然な調子で「おう」と問いかける。
「ミクも思うだろ。こんなん、けんかのうちに入らないよな?」
えーっ、と不満そうなリンに、ますますミクの表情は和らぐ。
「えっと、よく分からないけど」
でも、ありがとうございます。
小さく肩をすくめるようにして、ミクは話し始めた。

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流行りのドリンクスタンドに行ったのだという。
写真映えのする色鮮やかなジュースに、これまたフレーバーもさまざまなホイップクリームやゼリーがトッピングされた特製ドリンク。それらを提供するキッチンカーにも明るい飾り付けがなされ、さらには友人や恋人、家族とふたりで来店すれば、ドリンクカップをはめこんで手提げにできるカバーがもらえると話題になっていた。
新しいもの好きのリンは、以前からその店に目を付けていたようで、ミクに新しい服が届いたタイミングで「一緒にいこーよ」と声をかけた。ミクも二つ返事で承諾したわけだ。
SNSでの人気に違わず、店頭には列ができていた。初めて来店した客がほとんどなのだろう、列の進みはやや遅い。ミクとリンは特に他の用事もないからと、手にした通信端末でパズルゲームをのんびりと遊びながら順番がまわってくるのを待っていた。

「マスター……」 VOCALOID (1925字)

「マスター……」
「レン。どうした」
「うー……」
眉根を寄せたレンが、ドアにもたれるように立っている。秋《しゅう》はキーボードを叩く手を止めて、彼のほうへ向き直った。
「調子悪いか?」
「……うん」
「またこないだみたいにするか」
「んー……」
ほら、と手招きすれば、レンはのろのろと秋に歩み寄る。そのまま秋に背中を預ける形で、膝の上に腰を下ろした。その間もずっと、彼にしては低い声でうんうん唸っている。
「こないだの後、どうだった? 違和感とか不具合とか」
「なかった。体が軽くて楽になった」
小さな両手をそれぞれ握って、開く。薄い肩越しに、秋もその手のひらを眺める。
でも、とレンは口を開く。
「でも最近、なんかまた……」
「だるい?」
「うん、でもさ、えっと」
「ん?」
普段はいかにも思春期って感じで生意気ばかり言うくせに、こういう時はおとなしくなんのな――などとは言わない。彼らの真剣な態度を茶化すことだけは絶対にしないと、秋は決めている。
「嫌ならやめとくか」
「んー……」
「でも、今みたいにキツいままってのも困るだろ」
「うん」
どーしよ、とレンは小さくこぼした。どーすっかね、と秋もつとめて軽く応じる。
「やりたくないなら、それでもいいよ。しばらくベッドで寝て様子を見るでもいいし。リン達には俺から話しとくから」
ただまあ、と続ける。
「なんで気が進まないのか、俺には教えてくれると助かるけどな」
「……」
「誰にも言わないから。ゆっくりでいいから」
んん、と焦れたような声を出して、レンはもぞもぞと体の向きを変えた。ハイバックチェアにもたれる秋に向かい合うように座り直して、そのままべったりと上半身を預けてきた。
――ほんと、甘えただな。
いつもはどたばたと活発に動き回るレンがこれだけ緩慢にのろのろと動くのは、頻度でいえば数ヶ月に一度。仕様のためか、あるいは個体差のせいか、彼はリンに比べて、内部のハードディスクにキャッシュが溜まるペースが速いようだ。そのぶんメモリも圧迫されるようで、じわじわと動作が遅くなり、普段の減らず口はなりを潜め、最終的にこうして口ごもりながら秋に頼ってくる。
「……なんかさあ」
「うん」
もぞもぞと体を動かしながら、レンは言う。
「やなんだよね。再起動するときの感じが」
「どういうふうに?」
「……えっと、んー、嫌っていうか」
怖い。
秋は一瞬だけ固まったが、すぐにまたレンの背中をさすり始める。
「怖い?」
「うん、なんか、シャットダウンってスリープするときとは違うんだよね、なんか」
なんか、なんか、と言葉を探しながらレンは訴えた。
「スリープのときは、ちょっと目ぇつぶるだけって感じなんだけど。シャットダウンは、えっと、ぶつって切れるみたいで気持ち悪い」
「そうか」
秋は思い返す。メイコを引き取ったばかりの頃を。
彼女が思うような声を出せるようになるまでは、それなりに時間を要した。ハードとソフトのどちらに問題があるのか――あるいはどちらにも問題が無いのか――を探るため、秋は頻繁にメイコを再起動していた。そのたび、彼女はわずかに顔をしかめていた気がする。当時は、何度も同じことをやらされて辟易しているんだろうと解釈していたが。
「……そういうことだったのか?」
歌唱特化型に限らず、多くのロボットは電源をオフにしてもわずかに待機電力を消費している。ネットワークを通じた緊急警報には反応するし、強い衝撃を受けた際にも自動で起動するから、全く何も感じないわけではないのだろう。しかしそれは秋の推測でしかなく、実際にロボットたちがどう感じるかは分からない。
あらためて、秋はレンのつむじを見下ろした。つんつんと跳ねる前髪の下、彼は口を尖らせている。
「寝たいわけじゃないのに電源切られて、このあとちゃんと目が覚めなかったらどうしようって、ちょっと怖い」
すぐぶつってなるから、怖いって思う暇もあんまないんだけど。
「……うん」
「えっと、でも、再起動しないままだとめっちゃだるいから、それもやだ」
「だな」
長時間起き続けていると、彼らの内部に溜まったキャッシュが処理を妨げるようになる。頭の中をもやもやしたものが占めて、一つ一つの言動が鈍くなり、比喩でなくパフォーマンスが落ちた状態、それが今のレンだった。
「なんもしてないのに壊れた、って、なんかみんな言うじゃん」
真剣な目で問われれば、「そうだな」と答えるほかない。
「パソコンとかケータイとか、そういうことあるんでしょ。だったらおれも、なんもしてなくてもいきなり起動しなくなることだってあるんじゃん。……怖くね?」
「……そうだな」